不意に目が覚めた。まどろみから抜け切っていない状態特有のぼんやりと曖昧に霞む景色。やがて数秒後に雲ひとつ無い澄み切った青空で視界がいっぱいになって、花類独特の甘ったるい香りが鼻腔を霞めたとき、僕はまただ、とあまり上手く回転しない頭でのろのろと思った。
僕は花と草に覆われた地面に寝転がっていた。自らの意思でこうしていたのではなく、気付いたらこうしていたというのが正しい。“ここ”に来るときは必ずこうだ。もうこれで何度目だろうか、初めは数えていたのだがその内どうでもよくなってやめた。そんなものは意味が無い。大切なのは“ここ”に来たという事実。まあ現実ではないから事実という表現はおかしいかもしれないけれど。

ここは彼女の世界。彼女だけの世界。

僕は緩慢な動作でむくりと起き上がると、立ち上がって服に付いた草を両手で軽く払う。彼女を探しに行かなければ。今日はどこに居るのだろう、そんなことを考えながら適当な方向へ歩き出した。適当とは言うが、何しろ当てにするものがない。僕を囲む景色は左右前後全く同じなのだから。
足元に満遍なく咲き乱れるのは赤いアネモネ。生前彼女が好きだった花だ。花言葉なんかも教えてもらったが、全体的に儚く切ないイメージで、なんとなく彼女に似合っていると思ったのをよく覚えている。全草や汁液には毒を含んでいるが、そんなところさえも愛おしい、と彼女は言った。いつも花屋の前を通っては欲しいと僕にねだり、毎回一本だけ購入しては自室の本棚の上にある大きな花瓶に飾っていく。こうして少しずつ確実に増えていって、いつ訪れても彼女の部屋にはその香りがふんわり漂っていた。そして当たり前のように古いものから枯れていくのを彼女は嫌がって泣いた。そんな日常も、もう決して戻らない過去の話。
彼女は約三ヶ月前に余所見運転をしていたトラックと接触する交通事故に遭った。僕がすぐに呼んだ救急車も結局は意味を成さず、数時間後には彼女はこの世から消えていた。そんなテレビドラマでよく見る在り来たりで悲劇的な結末を、彼女は向えたのだ。

どこまでも広がる空の青、花の赤、草の緑。時計が無いから正確な時間はわからないが、多分十分程歩いて、ようやく彼女は見つかった。僕の瞳に小さく映る、赤に良く映える真っ白いワンピースの背中は花に埋もれるようにして座り込んでいる。前回来たときは起き上がっただけですぐその姿が見えて、前々回は今日よりもっともっと時間がかかった。僕が初めに目覚める場所が毎回違うのか、それとも彼女が居る場所が違うのか、それはいくら考えても答えが見つからない。見つける意味もない。
彼女に駆け寄りたいのに、それができない。この世界では、僕は俊敏な動作はできなかった。それがどうしてなのかはわからない。わからないことだらけで、だけどそんなことは彼女さえ居てくれればどうでもよくて。
ふっと彼女の顔がこちらを向いた。ここからでは細かな表情はわからないけれど、多分笑っているのだろう。セミロングの緩くウェーブした黒い髪をふわふわ躍らせながら花を蹴散らしてこちらへ駆けて来る。
「また来てくれたんだ」
僕の前で立ち止まって、息を弾ませることもなく彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。それだけで僕は幸せになれる。思わず零れる微笑みを彼女へと向けた。
「ねえ、聞いて。私、ずっと考えていたんだけど、」
「ん?なに?」
「あのね、この花達はどこまで続いているのかな。ずっとずっとずーっと同じ方向に歩き続けたら、どこかで途切れているのかな?」
ねえ、知ってる?そう無邪気に問い掛ける彼女に、僕は言葉を失った。
「あなたなら知ってるかと思ったんだけど」
だってあなたって賢いでしょ?と可笑しそうにクスクス笑う。僕は何か言わなくてはと無理やり唇を抉じ開けるが、曖昧な返事しかできなかった。
僕は知っていた。途切れることのないように見える広い広いこの世界に果てがあることを。いつだったか、前に彼女を探して歩いているときに辿り着いてしまったのだ、その“終わり”に。首が痛くなる程に見上げても途切れるところが見えないくらに高く積み上げられた煉瓦の壁に四方を囲まれていたのだ。これが何を意味するのか、僕は考えることを拒んでいた。何か、何か嫌なことに気付いてしまうような気がして。
「なんだ、知らないの?」
僕の反応を否と解釈したらしい彼女はつまんないの、と口を尖らせた。嘘は吐きたくなかったけれど、何となくそれを伝えてしまってはいけないと、心の隅で警報が鳴っているのが微かに聞こえていたから。これ以上何も失いたくない一心で、僕は自分の警告に従った。
「ねえ、今日は何を話してくれる?」
あなたの話は面白くてすきよ、なんて言って微笑む。そうだ、それでいいんだ。彼女は何も知らないまま、辛い記憶なんて思い出さないまま、ここで枯れることのない花に囲まれて幸せでいればいい。ずっと笑っていられればいい。
「じゃあ、前にした話の続きをしようか」
僕がとっておきを見せるように微笑むと、彼女は嬉しそうに頷いた。

たった今僕の目の前に居る彼女には、生前の記憶がほとんど無いに等しい。あんなに好きだったアネモネのことも、花屋に通ったことも、滅多に会うことのなかった家族のことも、事故に遭ったことさえも。でもいちばんの欠落は、“自分が現実世界という場所に生きていたこと”。それすら忘れてしまっていた。否、寧ろ知らないと言ったほうが正しいのか。生まれたときからずっと“ここ”にいた、そんなふうに思っているのだ。
ただ一つだけ例外で、僕と長い時間一緒に居た、ということだけは曖昧に心に残っているようだった。僕が別の世界から来ていることはなんとなく理解しているようなのに、それでも“ずっと一緒に居た気がする”と彼女は言うのだ。不自然な記憶、故に生まれる矛盾。それらがおかしいということに、彼女はいつまで経っても気付かない。
“ここ”にいる彼女のは、彼女であって彼女ではない。僕もわかってはいるつもりなんだ。けれど、それでもいい。どんなに不安定な存在でも、それが例え幻だとしても、ただ居てくれれば、それで。

「ねえ、あなたもずっとここに居られればいいのにね」

一輪摘んだアネモネを指先でくるくる遊ばせながら、不意に彼女はそんなことを言う。ずきん、心に鈍い痛みが走った。それが表情に出てしまったのだろう、彼女は僕が何か言う前に小さく首を横に振る。
「わかってる、それはできないんだよね」
でもちょっとだけ残念かな。そう悪戯に微笑んで見せる彼女はいつもと変わらない。無理をしているわけではない、そう思うけれど、それでも僕の胸は切なさで溢れる。ねえ、僕だって同じ気持ちだよ。君と居られることが、こうしている何気ない話をしていられることが何より楽しいんだ。

そう、願わくば、僕もこのままここで彼女と一緒に―――人間ひとりが消えたぐらいでは決して止まってくれない酷く無情で冷たい現実なんて捨てて、ずっとずっと。

この世界一帯に充満しているアネモネの香りが僕の思考を狂わせる。否、狂っているのかどうかさえも、自分ではわからない。ここに入り込んだ時点で僕の能は正常に機能しない。上手く考えられないんだ、彼女のこと以外は。でも、それが酷く心地良い。
「もっともっと聴きたい。また何か新しい話をしてよ」
「そうだね、じゃあ次はローマ神話でも。その中のアネモネという女性の話を―――」
ねえ、君は覚えていないだろうけれど、本当は君が僕によく聴かせてくれた物語なんだよ。なんて、唇の内側でこっそり呟きながら。さあ、僕が生きる世界に引き戻される前に、できるだけたくさんの話を彼女に捧げよう。

ここは彼女の世界。彼女だけの世界。だけど本当は果てがあって、彼女が知らない終わりが存在していて。
この空間はそう、まるで彼女が幸せでいられるように上手く作られた箱庭。こんなことを考えるのは恐ろしくて堪らないけれど、所詮は気休めでしかないこの楽園は、いつかは消えてしまうかもしれない。でも今は、今この瞬間だけはどうか、君が愛した儚く美しい花に囲まれながら夢心地でいさせて。




( 今ならこの緑に潜む毒をも、いつかの君と同じく愛しいと思えた )







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